シダの葉
2007/04/25(Wed)
久々の記事の投稿を機にデザインも替えてみた。2度目の変更となる。

もっとも中身と言えば、基本的には変わらないのが人間のようだ。
そんな自分と、あと何年あるいは何十年も付き合っていかねばならないと考えれば、53歳はまだまだヒヨコもいいところ。なぜなら喜怒哀楽も、浮き沈みも、そして稀に「軽く魔が差す」事も・・・だから「安定したいねぇ」とつくづく思う。

今のご時世、情報の渦の中であるのだが、自分に必要でないものまで貧弱な自分の脳に詰め込もうとしていないだろうか?それと同時に様々な情報が、「本当に確かなものであるのだろうか?」という疑問も持たざるをえないのなら、なんとも暮らしにくいご時世である気もする。

その「お知らせ」の本音はなんなの?
その「法改正」の目的はなんなんだ?
その「コメントの意図」の本質はどこにあるの?

所詮、生きる上では「表と裏」があって当たり前だと思うのだが、その割合に個人差はあっても、やはり一貫性は持ち合わせたいと思うよ。これだけ経済第一主義がまかり通ってきたこの国において、人々は今、バラバラになってしまっていないか?・・・

相変わらず東京が一番なの?
いつまで経っても、地方の馴れ合いの風習は変わらないの?
いや、そんな事はないはず、しっかり本当の目的や目標を捉えている地域もきっとあるはずだ。それは地域とは限らなくとも、いろんな考え方の中にも、普遍的な本質を共有する人々もいるはずなのに・・・

表と裏を使い分けるのは大人として当たり前。だが出来れば、生きているほとんどの部分を、表で生きていたなぁと思うこの頃である。いや単純な喜びを感じられるそんな表を歩いていきたいと思う。

学校の正門と裏門・・・・やはり裏門という言葉を使っては、いけないの?
しかし、入学式・卒業式には裏門は使わないだろうし、普段裏門を利用している人も、そんな時は遠回りして家に帰るんだよね。
ピリピリするのは・・・・なぜ? いろんな気遣いも結構だが、余計な配慮は
時として個人の「単純な喜び」の妨げになっていないのかな?無意味な気遣いも配慮も、する方にとっての勝手なおしきせでしかないのなら、そこは裏門であっていいはずだと思う。

こんなシダも、何万年の昔から毎年鮮やかな緑を楽しませてくれるのに。

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