【今日は京都五山の送り火】
2011/08/16(Tue)
110717三条鴨川

残念だが五山の送り火の画像はない。
40年ほど前なら、ここ三条大橋からも見えたかもしれない。
今出川堀川辺りのホテル7階から見ても難しい。
今はすでに10階建てのマンションが乱立気味なのだ。

さて子供の頃のお盆と言えば「熱帯夜を夜通し遊べる年に一度の怪しき一夜」
とは言っても小学生の頃はビービー弾で町の神社で夜の戦争ごっこ。おもろかったなぁ。
あの頃はコンバットもあった時代で、木で機関銃をまねて作って地べたに這いつくばって遊んだものだ。
でもビービー弾は実際に玉が飛ぶんやもんね。
高校にもなると、もちろん相手は男ではなく、銃でもなく、無意識な違うピストルだったのかも。

関西でのお盆は、この京の送り火をもって終焉となる。
年に一度、先祖の霊魂を家に迎え入れ、そして16日にまた送る、それがお盆。
盆踊りに精霊流し、海ではお供え物を海に流したものだ。

そんな風習も今は少くなって、今年の送り火とて震災の槇を使うの使わないの。。。

龍谷ミュージアムでの「釈尊と親鸞」は、現代になにを示唆しているのか、肌で感じたいものだ。

本来釈尊も親鸞も霊魂については何も触れていない。死後の世界も論じていない。
世は無常である無我であって、全てのものが縁起によって関わりあっているという宇宙観を見出し、
宗教とはいえ、唯一神を持たないという意味ではとてもユニークな思想であり哲学かと思う。

人それぞれの自我がある限りそれは煩悩そのもの、親鸞は自己の煩悩さえ捨てきれないとも言った。
親鸞自身は平民として妻も子供もいたのだが、その思想とはまさに逆転の発想であり、
追善供養も霊も、そして弟子一人も認めなかった。

「いくらもがいても あがいても それはあなたの煩悩そのものです」
「そんな自我の中で悩んで怒りや不安を抱いているのなら、全てを阿弥陀仏の本願に委ねれば。。」
「偉くなればなるほど鼻持ちならぬ己になる。それははらだちであり愚かさそのものだ」

物事をあきらかにみて、次の出来ることへと進みなさい。。。と
生きるも病むも、老いるも死ぬも、全て本願のなせる業。。。という事だろうか。
ならば、その山あり谷ありの生き様の中で、自分らしく楽しみなさいよ。。。と

お盆にお寺さんが家に参ってくれる。
法事の時も仏壇に向かって。。。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

だが思春期の頃から不思議に思ったのは、
「死んだ人に対して念仏しても。。。何の意味があるんや?」
でも今の僧はきっと言うだろう。。。「それは今までのしきたりです」と。
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